朝、駅に向かって歩いていると、少し先にひょろんとしたゴムひものようなものが落ちている。そのひもの片方の端はなにか濃いグレーのものにつながっているのだが僕の視力ではよくわからない。ひもの先端は細くなっていてゆるやかなカーブを描いている。その自然なカーブは、動物の尻尾を思い起こさせる。

……そんなことを考えながら歩き続け、さらにそれに近づいたとき、その正体が判明した。「動物の尻尾を思い起こさせる」もなにも、それはネズミの尻尾であり、そこに横たわっているのは、死んだネズミなのであった。

この街に暮らすようになって20年近く経つが、こういう状態のネズミ(おそらくドブネズミなのだろう)を見たのははじめてなのではないだろうか。頭の中でなんとなく思い描いていたネズミよりも、それは2割くらい大きかった。
そばを通り過ぎるまでの数秒間見た限りでは、その姿に欠けたところや形が変わってしまったところはなく、雨に洗われたからか汚れているところもなかった。ならば可能性としては深く眠っているネズミかもしれないわけだが、路上で眠っているネズミなど(少なくともこの街では)見たことがないし、その体は完全に静止していて、これはもう思い込みでしかないのかもしれないが、魂のようなものが抜けてしまったようにしか見えなかった。呼吸とともに浅く上下する腹とか、細かくぴくぴくと動く口とか、そういう動きとは完全に切り離されたものにしか見えなかったのだ。

きれいな体をしていたにもかかわらず、そのネズミを見ているとどんどん怖くなっていった。死んだものは怖い。かつて生きていたと思うととても怖い。もしかしたら、怖いのは死んだ体を見たからではなく、そこから抜けてしまったもののことを考えてしまうからかもしれない。

ふと、学生の頃、実家で飼っていた子猫のことを思い出した。
小さくてふわふわした毛の子猫が事故で死んでしまった時、飼っていたもう一匹のほうの猫がしつこくにおいを嗅いだのだ。花と一緒にダンボール箱に収まったその体のにおいを嗅ぐだけ嗅いだあと、怒ったようなうなり声をあげ、その時ひとり残らずべしょべしょに泣いていた飼い主たちに厳重注意されたのだが、もしかしたらあの時のうなり声は、怒ったからではなかったのかもしれない。
おおむね真っ白でふわふわだけど、額と尻尾の2カ所だけ茶色い部分があるその子猫の名前はタンゴといった。名前は僕がつけた。たしか5月生まれだったのだ。

タンゴが死んだ日は学校を休んだのだが、ペットが死んだから学校を休むという行動が、すべての友人に納得してもらえるわけではないということをこの時はじめて体験した。友人の数は多くはなかったが、イヤな性格の人間はいなかったので、特に腹は立たなかった。ただ、「ああ、伝わらないこともあるんだ」と思っただけだ。

友人のひとりに、くもりのないくりくりとした眼差しで「飼い猫が死んだくらいで泣けるんだね」と感心したように言われた僕は、お気に入りのテレビゲームのキャラクターが死んだくらいでほろほろと泣いてしまうような大人になってしまった。これは、そうなってしまったというだけのことで、だからなんだ、というほどのことではないのだろう。東京で育ったから標準語を使うとか、目玉焼きについしょう油をかけてしまうとか、たぶんそれくらいのことだ。

見知らぬネズミに花束を。